執筆者:後藤ようこ
映画レビュー最も好きな映画『アバター』の最新作は、やはり異次元だった ― 新作を観て確信した。『アバター』は全部が同じ温度をしている
- 2025年12月23日
- コラム
執筆者:後藤ようこ
後藤 ようこ取締役副社長
スキル
- ランディング(執筆)
- ディレクション
- コンサルティング
大学病院で看護師として働いたのち、看護教員の資格を取得し看護教育に携わりました。
現在は株式会社ノーブランドの取締役としてウェブサイトやパンフレット制作のディレクションを担当しています。(ディレクションは20年以上の経験を持ちます。)
また、医療系の出版社で医療記事の連載をした経験があります。医療記事をはじめ、販促物に掲載する原稿作成(ライティング)も担当しています。医療知識を持っているため、医療、介護、福祉関係のお客様が多いです
これまで学んできた、教育学、人間関係論、心理学などの知識を活かし、販売促進に関わるコンサルティングも行っています。


描く楽しさを伝える企業が、なぜAIポスターで躓いたのか? ——2025年の事例から、私たちが自戒を込めて学ぶこと 
<記事の概要>
『タイタニック』が不動の1位だった私が、シリーズ再鑑賞と最新作で『アバター』の圧倒的没入感を再認識。技術ではなく一貫した表現と作り手の意志が、AI時代にも人間の創作価値を証明する。目 次
1好きな映画、不動の1位
私は映画レビューアプリ「Filmarks」に1,000本以上のレビューを書いてきた。
それでも長いあいだ、好きな映画ランキングノ不動の1位は『タイタニック』だった。
ところが『アバター』最新作の公開前にシリーズ2作を見返した瞬間、その順位は入れ替わった。
実は、『アバター』は、確実に『タイタニック』を超えていた。
当時は3Dの体験に気を取られ、作品の密度を受け取りきれていなかった。
最新作に備えて見返した今、その熱量と完成度が真正面から迫ってきた。
そして最新作の公開。
私の中で『アバター』シリーズは、揺るぎない最上位に立った。
2ディズニーランドに3回行ったようなトキメキ
まずは新作の話に入る前に、シリーズ1・2作を見返して確信したことを書いておきたい。
第1作『アバター』が公開されたのは2009年。
あれから約15年が過ぎた。
いまは映像技術が日進月歩で、私たちは“映像の驚き”に慣れてしまっている。
そのせいか、見返した冒頭の数分は、当時の質感がふっと懐かしく感じられる瞬間もある。
だが、その感覚は長く続かない。
すぐに、作品が持つエンターテイメントの圧に押し切られる。
鼓動が速くなり、視線を外せなくなる。
映像の密度に引き込まれ、シンプルな構造の物語が、グラグラと心を揺らす。
結局、基本がすべて入っている。
これが『アバター』の強さだ。
この感覚は何かに似ている。
しばらく考えて、ようやく言葉になった。
そうだ。
ディズニーランドに3回行ったときの、あの高揚感だ。
シンデレラ城は、何度見ても心が動く。
エレクトリカル・パレードは、何度見ても飽きない。
ゆるぎない「夢の国」は、何度でもこちらの感情をわしづかみにする。
私の『アバター』の評価は、この一文に尽きる。
3全部が同じ温度をしている、圧倒的な没頭感
なぜ『アバター』は、ディズニーランドのエレクトリカル・パレードと同じように、何度見ても飽きないのか。
理由は単純で、作品の温度が落ちないからだ。
派手な場面でも、静かな場面でも、同じ熱量でエンディングまで世界が維持されている。
すごいのは技術そのものではなく、表現の一貫性。
決して、「ここだけ頑張った」ではない。
隅々まで(小物・環境音・背景)まで同じ温度で作っている。
結果、どのシーンを切り取ってもアートポスターのように絵力が美しい。
その結果、「映画を理解した」というより「世界を体験した」という感覚だけが残る。
圧倒的な没頭感。
私たちの存在は、そのまま アバター:AVATARの世界に持っていかれる。
4新作 アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ の感想
先日封切りされた、アバター:AVATARの新作 アバター:ファイヤー・アンド・アッシュは公開日初日にドルビーシネマ 3D 字幕版で鑑賞した。
感想としては、やはり圧巻だった。
ストーリーこそ、大きな目新しさはなかったが、アクションの表現は、さらに大きく美しくなり、新たな登場人物のキャラクターデザインも迫力があった。
また3Dの技術が、より一層美しくなったのと、劇場鑑賞者に優しい設計になっていた。
アバター:AVATAR 1.2は、少々、3D鑑賞が邪魔な場面もあった。
その分、映画に集中・没頭できず、2Dの方が良いという意見もあったほどだ。
しかし、最新作では、このあたりの問題もクリアになっている。
過度に3D表現にこだわることなく、あえて3Dにしない部分も多用している。
その分、鑑賞しやすいという結果を生み出した。
5KABUKI(歌舞伎)プロジェクト
そういえば、エンドクレジットを眺めていると、「KABUKI」というプロジェクト名が目に留まった。
それは偶然の遊び心ではなく、『アバター』の身体表現を支える重要な思想に使われたのではないか?と感じた。
日本の歌舞伎が持つ誇張された動き、見得のような一瞬の「止め」、感情を身体全体で伝える様式美。これらは、リアルをなぞるだけでは成立しないナヴィ族の身体に、確かな説得力を与えている。
『アバター』のキャラクターは写実的ではない。
だが不自然でもない。
その絶妙な均衡は、文化的リサーチに裏打ちされた「伝わる動き」によって成立している。映像技術だけでなく、身体表現にまで同じ思想と熱量が貫かれているからこそ、この世界は最後まで温度を失わない。
エンドクレジットの「KABUKI」は、『アバター』が単なる技術の到達点ではなく、ひとつの文化として設計された作品であることを静かに物語っている。
アバター:AVATARの世界を体感するという重要な役割に、日本の伝統文化の歌舞伎が使われたのならば、非常に喜ばしく誇らしい。
6物語にひそむ社会派メッセージ
ジェームズ・キャメロン監督はエンタメ作品の巨匠だ。
ターミネーター2もエイリアン2も、タイタニックも、すべてエンターテイメント表現がわかりやすく大衆の心を掴むツボを心得ている。
それはアバター:AVATARにも言えていることで、SF作品なのに、ややこしさやわかりにくさはなく、極めてシンプルでわかりやすい構造をしている。
社会派作品を量産してきた監督ではないが、アバター:AVATARに関しては、少々、社会派メッセージを感じる点も興味深い。
アバター:AVATARのアクションに流れているのは戦いだ。
敵と味方がいて、それぞれが自分たちを守るために敵を倒す。
エンタメ作品としてみれば、何もおかしなことはないが、アバター:AVATARのシリーズが進んでいくごとに、なんとなく社会派メッセージを感じるようになった。
アバター:AVATARの物語の中には、我々、人間は他の星からきたエイリアンだ。
人間がエイリアンで、主人公のアバター:AVATAR(ナビィ)が現地人。
これまで、人間以外の未知の生物をエイリアンの敵として描かれた作品が多い中、人間がエイリアンであるということに、少しとまどいを感じる。
そして、営利や利権のためだけに自然の生き物を壊していく愚かな人間に、絶望さえ感じてしまう。
しかし、アバター:AVATARは、そんな敵と味方をほんのすこし近づけようとする努力が感じられる。
人は、どんな時でも信じ合える、わかり会える・・・
もしかしたら、想像の生き物であるナビィを体感することで、争いや戦いばかりの人間の社会に一石を投じているのかもしれないと思った。
7生成AI時代の アバター:AVATAR
近年、生成AIの進化がめざましい。
これまで難しかった映像表現が、ワンクリックであっとう間にできてしまう新時代にはいっている。
最近のAI動画は、多少の事では驚かなくなってしまった。
いとも簡単に、美しい美女が作り出され、思い通りに動いてくれる。
映像をみるだけなら、生成AIでも十分感動できるだろう。
しかし、映画 アバター:AVATAR の最新作を見て感じた。
その世界を体感し、心がグラグラ揺さぶられる体験をするためのシナリオ、演出、キャラクターデザイン、演技、これらは、優秀な監督が無せる技であると。
見終わったあとに、おもわずスタンディングオベーションをしたくなる。
心が満たされる映画体験は、アバター:AVATAR 制作陣の努力の結晶の賜物だ。
視聴者に最高のエンターテインメントを届けたい。
そういったクリエイターズの執念が、このような傑作を生み出すのだ。
生成AI時代に、どんな職業が残るのか。
AIではなく人間にしかできない職業とはなんだろうか。
生成AIは、映像をつくることはできる。
だが、「なぜそれをつくるのか」「何を届けたいのか」という問いには答えられない。
アバター:AVATARが示したのは、技術の先にある人間の意志だ。
この映画は、生成AI時代においてもなお、創作の主役が人間であることを静かに証明している。