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後藤ようこ

執筆者:後藤ようこ

観光ブログ「病室」という名前の牢獄 ——草津・重監房資料館で考えた基本的人権(草津で出会う “もう一つの旅”)

  • 2026年01月20日
  • ビジネスに役立つブログ

<記事の概要>

草津温泉の湯畑で癒やされつつ、栗生楽泉園の重監房資料館を訪問。ハンセン病の歴史と隔離政策を学び、基本的人権の重みを考える「もう一つの旅」の記録。

1老若男女が癒やされる、湯畑が有名な草津温泉

群馬県を代表する観光地、草津温泉。

草津温泉の湯畑はビジュアルとしても印象的で、老若男女に親しまれている草津のシンボルです。湯けむりを眺めながら町を歩き、温泉に浸かると、自然に心と体がほどけていきます。

草津温泉は「日本三名泉」の一つに数えられ、自然湧出量は日本一。
毎分32,300リットル以上、1日あたりドラム缶約23万本分もの温泉が湧き出しているとされています。

この豊富な湯量があるからこそ、旅館や温泉施設で「源泉かけ流し」を楽しめる場所が多いのも草津らしさの一つです。

さらに、湯畑源泉は pH2.1 という日本有数の酸性度で、雑菌などに対する作用が高い泉質として紹介されています。

平日・週末を問わず多くの観光客で賑わうのも納得の“名湯”です。

夜の湯畑はライトアップされ、湯けむりの中で光がきらめく景色に。
冬、粉雪が舞う頃の湯畑は、いっそう静かで美しく、旅の気持ちをやさしく整えてくれます。

草津温泉

2草津の湯治とハンセン病——温泉地に集まった人々の歴史

草津・重監房資料館そんな“癒やし”のイメージが強い草津には、もう一つ、静かに向き合うべき場所があります。

それが「重監房資料館」です。ここは、ハンセン病問題の歴史を伝え、差別や偏見について考えるためのメモリアルな施設として、特別な意味合いを持っています。

草津温泉は古くから湯治湯として知られていますが、このお湯がハンセン病に効くとされていました。
ハンセン病の人々が草津に多く集まってきたのは明治時代に入ってからだそうです。そうした背景から、かつて草津にはハンセン病の人々が暮らし、湯治を続けた地域(湯之澤部落)が形成されました。

そして、この資料館を語るには、ハンセン病の歴史を避けて通れません。


ハンセン病とは

アルマウェル・ハンセン
ハンセン病(かつては「らい病」と呼ばれた病気)は、らい菌(細菌)によって起こり、皮膚や末梢神経などに症状が出ることがあります。長い歴史の中で「怖い伝染病」として恐れられ、外見の変化なども含めて、罹患した人が深刻な差別や隔離の対象となってきました。

しかし現在、ハンセン病は治療できる病気になりました。
多剤併用療法(複数の薬を一定期間服用する治療)が確立しており、治療を始めると、らい菌は短期間で感染力を失うとされています。

らい菌を発見したアルマウル・ハンセンにちなんで「ハンセン病」と呼ばれています。「らい病」などと呼ばれていましたが、この名称が差別や偏見を生むものとして、この病気の病原菌を発見したノルウエーの医師、アルマウェル・ハンセンの名を取って「ハンセン病」と呼ばれるようになりました。

現在のハンセン病

ハンセン病は、感染しても発症しない人が多いとされ、早期発見・早期治療によって外来で治癒できる病気です。 それでも、過去の隔離政策や偏見の影響は長く残りました。草津で語られるハンセン病の歴史は、医療の話だけではなく、「人が人として扱われるとはどういうことか」という問いにつながっています。

日本でも年にごく数人の新規患者が報告されていますが、その多くは在日外国人です。そのようなケースでは、来日前にすでに感染していて、日本で発症したものと考えられます。 現在、日本で生まれ育った人がハンセン病を発症するケースはほとんどありません

3草津のもう一つの貴重な施設 重監房資料館

ハンセン病をめぐっては、長いあいだ隔離政策がとられ、療養所での生活が“当たり前”として運用されてきました。そうした環境の中で、規律に反すると見なされた人を、さらに厳しく隔離・管理するための施設が設けられた経緯があります。

栗生楽泉園には、懲罰を目的とした建物として「特別病室」がつくられました。しかし名称とは裏腹に、治療などは行われず、その実態は監禁施設であり、通称「重監房」と呼ばれています。資料館は、その歴史を記録し、同じことを繰り返さないために私たちへ問いを投げかける場所でした。

⇣重監房資料館の展示室には、一部の実寸大再現や1/20の模型があり、構造を視覚的に把握しやすい資料館になっています。

草津・重監房全体再現縮尺20分の1


重監房の歴史

重監房(特別病室)は、昭和13年(1938年)から昭和22年(1947年)まで使われた施設です。現在は基礎部分を残すのみですが、貴重な資料を残すために発掘調査などが行われ、当時の状況について多くのことが分かってきています。

重監房が使われた約9年の間に、延べ93人が収容され、そのうち23人が亡くなったとされています。割合にすると約24.7%(約25%)です。数字だけで語り尽くせるものではありませんが、この比率が示す重さは、資料館の空気の中でより現実味を帯びて迫ってきました。

また、収容の背景には、療養所側に患者を処罰する権限が与えられていたことがあったとされます。判断の過程が常に透明であったとは言い難く、結果として当事者の尊厳や権利が損なわれた現実があった——その事実を前に、言葉が詰まる感覚がありました。

重監房の現実


重監房の劣悪な環境

重監房(特別病室)は、独房が8房並び、全体が4メートルの塀とで囲われた構造だったと資料から推定されています。右の写真は資料館内にある房の再現展示です。実物大で再現された重監房の中に入れます。

かつての重監房は小さな明かり窓が2つだけあり、ガラス窓はなく、冬は冷たい雪が房の中に入り込みました。

入口は低く狭い格子戸、食事の差し入れ口が設けられていたとも記されています。さらに便所からの脱走を防ぐために便槽は浅く作られていたことが分かっています。便槽あとから、収監者のメガネなど遺品が出土しています。

また、施設内は扉と通路で幾重にも区切られていました。徹底的に脱走を防ぐための密閉空間です。建物の「病室」という名称とは裏腹に、構造そのものが“管理のための空間”として設計されていたことが伝わってきます。

4重監房資料館で感じたこと

重監房資料館の展示に触れていると、「人間が人間をここまで追い詰めてしまう現実」に胸が締め付けられます。

世界にはさまざまな悲劇の記憶がありますが、私は、収容や管理の仕組みが人を無力化していく過程に、アウシュビッツをはじめとする歴史の重さを重ねてしまいました。(同じ出来事だと言いたいのではなく、「仕組みが人の尊厳を削っていく怖さ」を思い出した、という意味です。)

半世紀以上が過ぎても、これらの歴史は人々の心に深く刻まれています。

けれど、日本にもこのような人権侵害の歴史があったことを、私は全く知らずに過ごしてきました。知らずに過ごしてきたことへの恥ずかしさと、遅ればせながら学び直したいという気持ちが同時に湧いてきました。

人は本来、ここまで残酷になれるのだろうか?

そう思いたい一方で、時代や制度の名のもとで「同じ人間に対して、ここまでできてしまう」ことがあった。その事実に、言葉を失うような感覚がありました。ユダヤ人迫害の時に「凡庸の悪」を解いたハンナ・アーレントを連想してしまいます。

展示では、目を覆いたくなるような重監房に収容された人々の生活環境が記録として示されていました。

重監房の食事昼でもわずかな光しか入らない狭い空間に閉じ込められ、食事は小さな差し入れ口から渡されていました。量も決して十分とは言えなかった、という説明がありました。1日2回、1回のご飯はおにぎりにもできないほどの量とお茶碗1杯分のお湯、そして梅干しだったそうです。

ほとんど屋外と言っても過言ではない建物に、薄い寝具のみ。
草津の厳しい寒さを越える夜がどれほどつらかったか。
想像しただけで胸が痛くなります。

入浴の頻度についても、限られていた(月1回という記録もありました)ことが記録として示されていました。汚れた体、汚れた寝具。そこに置かれた人が、どんな朝と夜を迎えていたのか——考えるほど苦しくなりました。

そして、収監されている人のお世話は、同じハンセン病に罹患している隔離患者が担当したそうです。食事の配布などは罹患者の仕事だったようです。

重監房には医務室や詰め所などがあったそうですが、誰も常駐しておらず、医務室も使われた形跡がなかったようです。事実上、収監者を動物の檻のように入れておくだけの設備だったようです。

想像するに、清潔とはいえない監房の中は、匂いもただごとではなかったでしょう。
そのため、看守などは詰めていなかったのではないかと想像しました。

資料館には、収容された方の名前が伏せ字で展示されています。
偏見や差別が残る現実の中で、いまだ、フルネームを記すことすらためらわれる。名前が「その人の人生」そのものだと考えると、二重の意味で重く感じました。

さらに、亡くなった方々の情報も記されており、自死に至ったとされるケースもあることが示されていました。

館内には、監房の一部が原寸大で再現されています。
時代を越えて、私たちが当時の息苦しさをわずかでも追体験できるように——そんな意図を感じましたが、私は数秒で息が詰まり、写真を撮る余裕もほとんどありませんでした。空気が変わる、という表現があるなら、まさにそういう場所でした。

展示物であっても、長くはその場にいられない気持ちになりました。

5基本的人権の歴史:人は「生まれながらに権利をもつ」

近代の人権思想は、「人は自由で平等である」という理念を、社会の約束として言語化してきました。

フランス革命期の「人および市民の権利の宣言」(1789年)はその代表例で、「人は自由で、権利において平等」といった考え方を明確に掲げました。

しかし20世紀、とりわけ第二次世界大戦期には、迫害や大量虐殺など、人間の尊厳を踏みにじる出来事が世界各地で起きました。その反省を背景に、国際社会は「人間の尊厳」と「権利」を国境を超えた共通基準として明文化し、1948年12月10日、国連総会で世界人権宣言を採択しました。

日本でも戦後、1946年11月3日に日本国憲法が公布され、1947年5月3日に施行されました。憲法は第11条で、国民はすべての基本的人権の享有を妨げられないことを定め、基本的人権が「侵すことのできない永久の権利」である旨を示しています。

さらに第97条では、基本的人権は長い闘いの成果であり、将来世代に信託され「永久に侵されないもの」として保持される、という位置づけが明記されています。

そして重監房(特別病室)は、まさにこの歴史の転換期と重なる1938年から1947年まで使われたとされています。理念が言葉として整っていく時期のすぐ隣で、現実が追いつかなかった場所があった——重監房資料館で感じた重さは、そこにありました。

6今を生きる私たちへの過去からのメッセージ

過去を変えることはできません。過去の出来事を「なかったこと」にもできません。けれど、知ることはできます。学ぶこともできます。

そして知ることは、同じ過ちを繰り返さないための、最初の一歩になります。

草津の重監房資料館は、想像以上に厳しい現実と向き合う場所です。人によっては、心が持っていかれる感覚になるかもしれません。だからこそ、無理はせず、それぞれの覚悟と判断で訪れてほしいと思います。

草津は、人を癒やす温泉地であると同時に、日本の人権の歴史を静かに見つめ直せる、貴重な場所でもありました。唯一無二の日本の財産です。

草津温泉で心身をゆるめる旅は、それだけで十分価値があります。

でも、もし少しだけ時間を取れるなら、重監房資料館にも足を運んでほしい。ここで感じるものは、知識として持ち帰るだけではなく、自分の「当たり前」を静かに問い直すきっかけになると思います。

もう一つ、違った視点で日本の人権の歴史を見つめることのできる貴重なエリアだということも、心の片隅に記録してもらいたいと心から願います。

あの時代、過酷な重監房で命を落とされたかたの、御冥福を心からお祈り申し上げます。

後藤ようこ

執筆者:後藤ようこ

後藤 ようこ取締役副社長

スキル

  • ランディング(執筆)
  • ディレクション
  • コンサルティング

大学病院で看護師として働いたのち、看護教員の資格を取得し看護教育に携わりました。
現在は株式会社ノーブランドの取締役としてウェブサイトやパンフレット制作のディレクションを担当しています。(ディレクションは20年以上の経験を持ちます。)
また、医療系の出版社で医療記事の連載をした経験があります。医療記事をはじめ、販促物に掲載する原稿作成(ライティング)も担当しています。医療知識を持っているため、医療、介護、福祉関係のお客様が多いです
これまで学んできた、教育学、人間関係論、心理学などの知識を活かし、販売促進に関わるコンサルティングも行っています。

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